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写真と文 石川文平

 

No.26「プリテック・ステージ」1997年4月号掲載

 

とんき

■”とんき”あまり聞き慣れない言葉ですが、知る人ぞ知るなのです。もっとも、知っててもあまり自慢になるもんでもありません。のんき、とか、とんま、なら知っているけど、”とんき”がとんかつ屋の名前だと知っているのは、ほんの一部の人だけでしょうから。目黒駅前にある古いとんかつ屋さんですが、ここはいつも満席で、その上行列をしています。かつの衣が薄く独特の作りで実においしいんです。別段お店の回し者ではありませんので褒めても一銭にもならないことをお断りしておきます。このとんきの人気の秘密は味ばかりではありません。いくつか話題があるのですが、中でも特筆は名物おばさん。別名コンピュータおばさんです。■このお店はカウンターの中央に広い厨房が何の仕切も無く広がっています。中では10人程がてきぱきと働いています。カウンターには6〜70人座れますがいつもそれ以上の人がカウンターの後ろのベンチで待っています。コンピュータおばさんのいわれはその記憶力。おばさんは入って来た人の注文を取ると、どんどん待合ベンチに自由に座らせてしまいます。順番に並んで待たなくていいんです。混み合うときは待ち席に座れない人も沢山出るので、待つ人だけでも100人位がごったがえします。そんな状況の中でも、おばさんは席が空くと間違えることなく順番通りお客さんに声をかけて案内します。メモなどとっている様子はありません。初めてのお客さんは、自分の順番が分からなくなるのではと落ち着かずきょろきょろしています。常連は落ち着いたものです。安心できるということは商売の原則だという実感を持てます。 ■ここでは顧客に対するサービスの原点を全て満たしているように感じます。カウンターも厨房の床も全て白木で作られていますが、いつもきれいに磨き上げられていて清潔です。お店の人は無駄口をきかずにてきぱき動きますが、お客様との対応はにこやかです。キャベツが少なくなるともう少しいかがですかと追加してくれます。過剰でもなく不足でもなく、素朴で心のこもったサービスを感じます。カウンターで食事をする言わば大衆店ですから、高級料亭のようなサービスは誰も望みません。しかし、最近の高級料亭からもなかなか得られなくなった、サービスの根っこのような部分に触れられる気がします。知り合いの社長は、新入社員が入ると必ずこの店につれて行くそうです。この店で食事をさせると、言葉で説明しなくても大事なことを感じとってくれると言います。■コンピュータの発達は素晴しい可能性と同時にハートや感覚的な価値観を失いがちだと言われています。コンピュータおばさんの魅力は、記憶力のすごさよりも気持ちよく食事をしてもらおうとする姿勢にあると言えます。お腹がすいているからこそ来店するお客様、一人でも順番が違えば気持ちの好い筈はありません。プロとして心をこめた仕事をするために、コンピュータおばさんは今日も自分の脳細胞コンピュータをフル回転させて頑張っているのです。

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