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写真と文 石川文平

 

No.22「プリテック・ステージ」1996年12月号掲載

 

時 代

「正太」「正太」、母親の呼ぶ声など何処吹く風で、ランドセルを玄関先に投げ出すと正太はいつもの広場に駆け出していった。「まったく、帰ったと思ったらもういないんだから」そんなことを言いながら、母は七輪の上に魚をのせた。▽「ごめん、ごめん。先生がなかなか帰してくれなかったんだ。」正太は既に野球をしている仲間を前に右手の袖で鼻を一拭きした。「バーカ、正太は要領が悪いんだよ。宿題忘れた上にハゲチャビの似顔絵なんか黒板に描くからさー。」いがぐり頭が言うと、眼鏡のぼっちゃん刈が「そうそう、本人が後ろで見てるのも気付かないでなー。」どっと笑い声が上がった。そのことに少し嬉しさを感じながら正太は守りについた。もう木洩れ日が斜めになっていた。▽広場の子供たちの声はしばらくしてから静かになった。「じゃーなー。グッバーイ。」「じゃーなー。明日もなー。」相手が見えなくなるまで大声をだしながら、いつもの角で二人三人と分かれていく。その声がこだまの様に路地に響いて感じるのは、夕暮れが早いこの季節からである。家の角の街灯の辺りまで来ると、台所の音と夕飯の香りがする。「今日は魚かー。たまには肉にしてくれればいいのに」、でも、この夕暮れの香りが正太は好きである。玄関の戸を勢いよく開けて「ただいまー。腹減ったー。」「なんだ正太、今まで遊んでたのか」父親が着物に着替えて、へこ帯をしめているところであった。兄弟は3人、食事中も実に賑やかである。よそ見をしているとおかずがすぐなくなる。好き嫌いなどしていられない。兄弟三人は次々とおかわりの手を差し出す。正太は末っ子だからつい母親も甘くなる。「正太、お前いつも自分のおかずを先に食べてしまって、お母さんのまで貰うのはずるいぞ。」下の兄が文句をいった。「正太、おかずの量を考えながらご飯を食べるんだぞ。おかずが沢庵一枚でもご飯が食べられなきゃ、立派な大人になれないぞ。」父親のその言葉には説得力があった。正太は四杯目のご飯を沢庵だけで食べてみた。大人に一歩近付いた様に感じた。 ▽五年生になってからは母親と風呂屋に行くことは少なくなった。父親とは帰りに何かを飲ませてもらえるので喜んで行くが、背中を痛いほど強く洗われるのと、長時間湯につかってないと怒られるのがちょっとつらい。何といっても、正太は友達と一緒に行く風呂屋が一番楽しい。石鹸箱シャボン玉程度は女の子でもやっているが、水鉄砲、手桶滑り、石鹸ホッケー等遊びにはこと欠かない。潜水艦遊びは、うるさい畳屋の爺ちゃんがいない時にやることになっている。この前は仕切の下をくぐって隣の浴槽に浮上したとたん、目の前にあった顔が畳屋の爺ちゃんであった。そんな時はすぐに再潜行である。潜ったのはいいのだが、早くその場をはなれようとジタバタしたところ、じいちゃんの大事な所を蹴ってしまった。「こらー」の声を背中に聞きながら、正太たちは大慌てで脱衣所まで逃げた。そして、爺ちゃんの顔がこんな風に歪んでたと真似をしては腹を抱えて笑った。▽寒い日は母親が湯たんぽを入れてくれる。寝ると正太は雷が落ちても起きない。朝起こすのに母親がいつも苦労する。「正太、正太。」また母親の呼ぶ声がした。「あなた、あなた。」慌てて飛び起きると出勤時間であった。正太はコンピュータに全く縁のない時代の懐かしい夢をみた。

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