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写真と文 石川文平

 

No.18「プリテック・ステージ」1996年8月号掲載

 

縄文文化

■最近、縄文文化が見直されている。青森の三内丸山遺跡を中心に、縄文文化を展示した「縄文まほろば博」を見学したが、縄文人の豊かな文化と感性に、これまでの縄文時代に対する認識を改めさせられた。この三内丸山遺跡のポスターの広告コピーが面白い。「縄文の都市計画」「縄文のブランド」「縄文の情報ネットワーク」など、今の時代に通じる縄文文化の素晴しさをうまく表現している。■まず驚くのは、日本の伝統技術である漆塗の漆器が、既にこの時代に存在していた事である。漆の木は中国原産で、平安以降漆塗りの技術と共に日本に伝わったと言われていた。出土した漆器は、木の碗に朱の漆を塗ったものであるが、現代の漆塗りのおわんとほとんど同じであった。出土品を見ていると、皿やどんぶりはもとより、水差し、どびん、盃、とっくり等々。実際の用途は想像の域を出ないが形の上からは、現代の日用陶器の原形は全て揃っていると言える。以前、古代人の子供の墓の中から相当量の花粉が発見され、死者に花を添えていたのだろうという記事を読んだことがあった。古代人が死者に花を手向けた事を驚き感動した内容であったと思うが、古代の人間だから情操感まで持ち合わせなかったろうと考えるのは、古代人へのあなどりかもしれない。縄文人の素焼きの日用品の中に、花瓶が有った筈だと考えるのは古代ロマンへの浸り過ぎであろうか。■三内丸山遺跡は、最大500人程の人口で1500年間に渡り広い地域を計画的に使用していた。まさに、「縄文の都市計画」である。中には住居とは違う形の、大きな共同作業場の様な建物や、高床式の食料貯蔵庫も有ったようである。当時の重要な食料であった栗の木を、彼等が栽培していたらしいことが、DNA鑑定によって判明したそうである。小さな集落でその日暮らしという、これまでの縄文の社会像は覆えされたのである。共同作業場では、収穫した食料の保存加工をし、土器やかごを作り交易用の品物として、生産していたのかもしれない。共同作業はきっと村人が交代でやるのだろう。全ての物が貴重であり、大切にし、感謝する。だから、収穫を平等に分けるルールがあったに違いない。このように色々と推測を楽しんでみると、最近の考古学人気が理解できる。 ■縄文時代から弥生時代への変化は、鎌倉時代が室町時代へ変化したのとは訳が違うようだ。縄文人と弥生人は骨格が違うので、人種が違うとされている。稲作を知らなかった在来の縄文人は、稲作技術を持った外来の弥生人に代頭され、或いは融合していったのだろう。稲作という技術がもたらした古代の産業革命が、日本という地域を大変革させたようである。■我々は古いものに対し、考古学的希少価値は感じても文化や思想は劣っていると考えてはいなかっただろうか。1万年以上続いた縄文時代人は、ゆったりとした時の流れの中で、豊かな文化を育んだ。現在につながる物質文明は、弥生時代以降始まったような気がする。そう仮定すると、この物質文明はまだ2000年程の浅い歴史であるにもかかわらず、地球資源を枯渇し始めている。現在の文明や情報化社会が、果たして今後、さらに豊かな文化を生み出していくのであろうか。豊かさとは何か、縄文の文化を通して考えるべきなのかもしれない。(参照「縄文の扉」縄文まほろば博実行委員会発行)

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