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修行の巻八

 

そんなわけで、天気の良い日はアリ観察に勤しんだ。ここのアリは何が好物か。アリが餌を発見するまでにどの位時間がかかるか。餌を発見したらどんな行動をするか等々、他愛も無い事をわくわくしながら観察した。だから雨の日はアリを見に行けないのがつまらなかった。晴れるとパン屑を持ってまたいそいそとアリに逢いに行くのである。
こんな密かな楽しみを続けながらも瞑想の修行は続いた。既にヴィパッサナ瞑想に入っていた。この瞑想法は自分を内観する瞑想法と言われている。ヴィパッサナとは観るあるいは観察するという意味らしい。頭のてっぺんからつま先まで、自分自身を観察するのである。初めは自分の身体の表面である。頭、額、眉、眼、鼻、口、耳・・全身を観察する。具体的な方法は割愛させていただくが、研ぎすました心で自分自身を繊細に観察し始めると、身体に感覚的な変化を感じるようになる。ここで言う観察するとは、身体の部分を感覚的に意識することである。自分の頭のてっぺんからつま先まで、身体の存在を意識(観察)するのである。簡単そうだが難しい。心が完全に平静でしかも集中出来ていなければならない。最初の3日間行ったアーナパーナ瞑想はこの状態に至るための不可欠な瞑想法だったのだ。このヴィパッサナ瞑想は私にとって自分自身との格闘になった。格闘という言葉はこの瞑想法には相応しく無いが、未熟な私にとってはまさに格闘である。心の平静さを保てず、僅かのことに一喜一憂している自分が観えてくるのである。心を平静にさえ保っていれば、瞑想中に顕われる身体の感覚はじきに消えてゆく。この感覚に対してこだわりを持ち始めると、その感覚が増幅したり滞ったりし始めるのである。この身体に顕われる感覚のことをこの瞑想法ではサンカーラと言う。このサンカーラとはどんなものかを正しく説明するのは難しいが、現在の言葉で分り易く言えばストレスという言葉が適当なのかもしれない。この瞑想によって過去に溜ったストレスが身体の表面に、ある種の感覚として顕われると言えば分り易いだろうか。ある種の感覚とは、痛みやだるさ、熱さや痺れなど様々である。瞑想中に、限り無くサンカーラは顕われ消えて行く。瞑想を終えると身体はぐったりと疲れているが、マッサージの後のように心地よく軽くなっているのである。不思議な感覚である。
この不思議な自分自身の観察の合間に、パン屑を持っていそいそとアリの観察に出かけるのである。ちょっとおかしな状況とも言える。地面に顔を近付けて小さなアリに意識を集中していると、かん高いモズの鳴き声が秋空に響いた。ふと顔を上げて遠くを見ると、山の向こう側から雲が流れて来るのが見えた。青く澄んだ空に、ひつじ雲の様ないくつもの小さな雲がこちらに流れてくる。その情景をじっと見ていると、風景と自分が一体になるように感じた。この世界の全てが自分なのかもしれない、おかしな錯覚に襲われた。

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