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あとがき II

 

サンカーラは渇望や嫌悪が始まった時点で生じる。平静な心で身体を観つめると古い サンカーラが表面に顕われる。そして、顕われたサンカーラは平静な心で更に観つめ ていれば消える。とてもシンプルな仕組みだ。このシンプルな仕組みは、反応もシンプルである。嫌悪すればするほどサンカーラは増え、既に顕在化していたサンカーラと共に大きくなる。渇望しても同じである。 私は、瞑想中に身体中が痛みと不快感の固まりになり、身動きのとれない状態にまでなった。何故だ、今まで順調にサンカーラが消失していたのに・・・。この何故だ、がずいぶん以前から心に湧いていた事に気付く。早く楽になりたい。早く消えてほしい。自分のエゴイスティックな部分を観た(気付けた)のはその時であった。そこにはサンカーラが消えた気持ちの良い状態を渇望し、不快な反応を認めようとせず、嫌悪と渇望をくり返す自分が居た。シンプルな仕組みだからこそ誤魔化すことが出来ない。いくら繕っても心の動きそのものが反応になる。これはもしかして普段の自分自身にもあてはまる事かもしれない。普段社会人としての自分は十分良識的で人との付き合いもうまく出来ていると思っている。年令相応の言動という点では常識的レベルを持ち合わせているはずなのだが、実は相手に対して何らかの前提で反応をしていないだろうか。あの人はいい人だ、あるいは、あまり好きじゃないが仕事の関係でうまくやっている等々。平静な心とは、現状をありのままに受け入れるとはどういう事か、理屈では分かっていたつもりだが実はこの体験からやっと少し理解できはじめたように思う。理屈では、平静な心であるがままの状態を認めるのだと思っていても、実行するのは難しい。これが理屈で覚えた知識と体験で得た知識の差ということなのだろう。ゴエンカ氏の講和に何度も出てくる「体験から得る知識」という言葉を、私はまさに体験して実感した。学歴社会の知識偏重がつくり出した記憶力だけの知識からは、ゼロからの創造力や非常時の判断力は生まれない。私は、小児虐待など最近の社会問題にも頭でっかちのバーチャル知識人の影を感じる。
2001年9月11日アメリカでとんでもない事件が起きたが、その時私はアフリカに出かけていた。タンザニアでキリマンジャロに登り、ケニアのマサイマラで動物の写真を撮って、帰路ナイロビで事件を知った時には事件後2日が過ぎていた。ライオンやキリンを追っていた環境とは180度違う事件に、一瞬カルチャーショックのようなものに襲われ、頭を切り替えるのに時間が必要だった。あの無差別テロの悲惨さは全世界を揺るがせた。長い歴史の宗教問題に政治が絡んだ根の深い問題がある様だ。何故人は殺しあうのだろうか。人間以外の動物は捕食以外に相手を殺す事は殆どない。餌として食べるために別の種を殺すわけだが、必要以上に捕ることはない。原則的に命は100%相手の命(エネルギー)になるのである。人間は自分の満足の為に他人を殺せる。人間が他の動物には無い思考や感情を持ち合わせたことが、もっともっとと切りの無い欲望(渇望)や嫌悪も附随して持つことになった。人類は、まだこの両刃の剣を使いこなせないのである。この瞑想ものがたりをここまで読み進んでくださった方ならば、心の問題を非科学的な事として一蹴する人は少ないと思うが、人類の持っているこの矛盾を考える時、次の様な極端な例を想定してみるのも面白いのではないかと思っている。

もし、人類が肉体を持たない存在だったとしたら。つまり、肉体が無く心だけが存在していると想定してみるのである。あなたの悩みや苦しみの殆どは無くなってしまうのではないだろうか。 人類の悩みの殆どは肉体に由来しているからである。衣食住、そして金、または美人だ美男子だ、背が高い低い、病気や怪我、幸福感や不安感の原因は身体やそれにまつわる物質的なものが殆どである。肉体や物質的なものに全く関わらない争いや悩みを探そうとしても殆ど見当たらないのではないだろうか。人間は顔かたちよりも心が大事だなどと誰でも一度は聞いた事があるのだが、心が大事だと分かっていても、つい誰かと比較したり、金や損得にこだわりがちである。もし、人類が肉体を持たない存在だったとしたら、現在の争いの99%は無くなるに違いない。そう考えれば、現在の争い事など、他愛もないことが多いのではないだろうか。

さて、今のたとえを逆の視点から見ると、心だけの存在であったとすれば、五感も無いわけであるから相手に触れる事も、相手の容姿も、あるいは水の美味しさや空気の爽やかさも感じる事は出来ない。音や味や香りや景色など豊かな変化を享受するには肉体が必要なのである。そして、肉体が有るということは悩みや苦しみも生ずる可能性が出てくるということでもある。 人間の肉体の消滅は死を意味するわけだから、所詮こんな想定は意味のない事だと言われても仕方ないのだが、心というものの在り方を考えるには、このくらい極端な想定も必要なのではないだろうか。

私が初めてヴィパッサナを体験してからもう何年も経った。つい昨日のようにも思えるが、色々な事があって長い年月が過ぎたとも思える。長いとも思えれば短いとも思え、楽しいとも思えれば苦しいとも思える。人間の思考とは不思議なものである。

瞑想とは、思考停止を体験することによって、いままで思考に惑わされて来た自分を、見直す作業だと私は思っている。ビパッサナー瞑想によって、新しい気づきをもたらされたことに感謝すると共に、ここまでおつきあいくださった読者諸兄に「ありがとう」の感謝を申し上げて筆を置く。(完)

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