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あとがき I

 

この「瞑想ものがたり」を書き始めてもう半年以上が経った。初めはヴィパッサナ瞑想の具体的な方法なども織りまぜて書こうと思っていたが、改めて瞑想センターのホームページを読み直すと、この修行法はきちっとした形で学ばなければならないと書いてある。私のごとき未熟な者が中途半端な方法論を書くべきではないと思い直し、瞑想初体験物語りに徹することにした。そんな訳でこの話の中にはあまり書けなかったヴィパッサナ瞑想に対する私見なども交えて、少しばかり長めのあとがきを書いてみたいと思っている。
先ずは、この瞑想に行ったおかげで出会うことのできた多くの皆さんに感謝したい。特にポマさん、キンパチくん、オボウさん、コボウさんには登場人物として華を添えてもらった。ポマさんはその後メールの連絡をいただき自分の写真を焼き込んだCD-ROMを送ってくれた。オボウさんとは2回目の瞑想に行った時に、再び出会い不思議な縁を感じながら11日間を過ごした。彼とはその後も連絡を取り合っているが、自然農法での稲作に独り励んでいる。他にも多くの方たちと手紙やメールの交換をさせてもらっており、新しい出合いに感謝している。 連載中に、ある大学生からメールを頂戴した。仮にS君と呼ばせてもらうが、S君のメールは「瞑想をして得られたものは何か、瞑想をすると本当の自分を見る事が出来るものなのか」というものだった。誰でも抱く疑問だろうと思うが、この「瞑想ものがたり」本文ではその辺のところに触れてこなかった。私はS君に後書きの中で書きたいと返信もしたのでその辺のことも書こうと思っている。
私が瞑想に対して最も印象強く意識したのは、心理学者として有名なユングについての本を読んでからである。ユングは深い瞑想に入ると、同じ老人が出て来たり、曼陀羅の図形イメージが涌いてくると書いている。曼陀羅のイメージについては、すでに東洋に存在することを知って、ユングは驚き、そして喜ぶ。「黄金の華の秘密」という道教書の訳本に数枚の自筆曼陀羅図を掲載し、ヨーロッパ人の観た曼陀羅として解説しているほどである。この事を知って私は瞑想に大きな興味を持った。私が瞑想を体験する迄には、他にも色々な経過があるのだが、本文に書いたような切っ掛けでヴィパッサナ瞑想を体験することになる。私の場合、残念ながらユングのような老人も曼陀羅イメージも出て来てはくれなかったが、これは瞑想法の違いによるものなのかもしれない。私がこのヴィパッサナ瞑想を経験して得たものと言えば、エゴイスティックな自分に気付けたということだろうか。私にとって、これは大きな収穫になったと思ている。50を過ぎてるくせにそんな事にも気付いていなかったのかと笑われそうだが、お恥ずかしい話その通りなのだ。得たものは何かと問われて、そんな答えではちょっと拍子抜けされるだろうが、私が得たものはそんな事であり他の人はまた違ったものを得ているのだろうと思う。
本文中にも書いた事だが、自分自身を見つめる内観というこの瞑想法は、サンカーラとの戦いとも言える。戦いという言葉は適切ではないのだが、未熟な段階ではどうしても戦うような思いになってしまう。サンカーラをストレスのようなものと説明したと思うが、経験のない人にはそれが一番分り易いイメージではないだろうか。ストレスは思いが叶わなかった場合や、辛い経験などで生じ、それが溜ると病気になると言われているが、どこにどのように溜っているのかの説明を聞いたことはない。ストレスとサンカーラの考え方の一番の違いは、ストレスは辛い思いなどマイナスイメージで生じると考えられているが、サンカーラは欲望や願望が叶っても、それをさらに願う渇望や、物事や人に対する嫌悪で生じると言われている点であろう。叶わなかった時点でストレスが生じるのではなく渇望したり嫌悪することが既にストレスを生んでいるという考え方である。渇望や嫌悪が始まる状態は、その対象にたいして執着が始まったことでもある。つまり、心が平静な状態にないことがサンカーラを生むのである。深い瞑想状態で頭の天辺からつま先まで身体を細かく観つめていくと、溜まっていたサンカーラが顕われてくる。サンカーラが顕われたことは痛みや不快感が伴うのですぐに分る。足であったり、背中であったりそれはもうあらゆる所に顕われては消えて行く。この修行を日がな一日くり返し、翌日もその翌日も続けるわけだが、ある時サンカーラが消えるどころかどんどん増加し、身体中に顕われ苦痛に耐えられない状態になった。私が自分のエゴイスティックな状況に気づけたのはその時だった。
(つづく)

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