文平の散文詩
散文詩
エッセー
ポレポレ

写真と文 石川文平

ホロンボハットのロッジで起床時に脈拍を計ったところ100を超えていた。他の人に聞くと皆60前後の正常値だった。自分はスポーツもやっていたので体力には自身が有ったのだが、3700mの地点で既に心臓は人よりも負荷が掛かった状態であることを知った。顔の浮腫みもひどかった。頭痛もしないし、体調的には自覚症状は無かったが、起床直後のこの脈拍数は正常とは言えなかった。私は、同行のメンバーに負担の掛かるような無理はせず、登頂にこだわるのはよそうと考えた。とは言え山頂に眠る(?)キリマンジャロの豹を見ようとやってきたのだから、是が非でも登頂したい。私の性格からして無理をしかねない。私は自分に具体的縛りをかける事にした。誰かにストップをかけられたら素直に従う。メンバーの誰かの下山とすれ違ったら登頂を諦める。私はホロンボハットのロッジで密かに誓いをたてた。
上から数人が下山して来るのが見えた。メンバーだろうか、近く迄来て違うことが判るとほっとした。あの尖った岩場を過ぎれば標高5682mギルマンズポイントだ。そこからは氷河が見える。あのキリマンジャロの雪が見えるのだ。また歩き出すが足は重い。ポレポレキリマンジャロ、山頂迄はもう少しだ。しばらく歩くとまた数人が下りて来た。長谷川さんの顔が確認できた。とうとう決断の時が来た。向い側のマウエンジ峰を見下ろす5500m付近で私は登頂を断念した。憧れのキリマンジャロの雪の見えるギルマンズポイントまで、あと標高差100m程であった。私は「ここ迄でいい」とチャガに言った。彼はあと30分もしないで山頂だよと登頂を奨めてくれた。ありがとう、でも決めたんだ此処で下りるよ。そう言ってその場に腰を降ろした。登れなかった悔しさよりも決断した安堵感にすーっと力が抜けた。酸素不足の脳は睡魔に誘われた。ほんの数分だと思うが眠っていた。柳木さんの声で目がさめた。立ち上がろうとした時足がよろけた。ほんの数分なのに昏睡から覚めたような感覚だった。ギボハットのロッジまでガレ場を一気に下る。
下りても下りてもロッジに着かない。こんなに歩いて来たのかと思う程遠く感じながらギボハットに到着した。ギボハットに到着しても、私の水道の蛇口は開かなかった。あのサドルをまた延々と歩いて、ホロンボハットに到着したのが夕方5時を回っていた。ここまで降りて来てようやく廃水完了となった。なんと前日最後の廃水から23時間以上の保水時間であった。海抜5500mは私の高度記録になったが、無廃水23時間も私の記録になった。
ポーターのチャガにはすっかりお世話になった。チャガは帰り道に私にキリマンジャロの歌を教えてくれた。スワヒリ語の歌だが日本民謡に似たテンポで覚えやすい。くり返しのリズムで楽しい歌なのですっかり気に入り、後で歌詞を書いてもらった。
山頂迄行って来た仲間も、豹はいなかったと言う。現地の人に聞いてもあまりはっきりした答えは返ってこなかった。神の山と讃えられたキリマンジャロに豹がいると言うのは、登山者に対する信仰的戒めであったのかもしれない。しかし、これがライオンではしっくり来ない。やはりキリマンジャロには豹が似合う。豹も登った山頂に登れなかった私は、戒めを守った純朴な人間なのだから、きっといい事が有るに違いない。そんな、イソップの狐のような自分騙しをしていたある日、キリマンジャロの山頂に立った夢を見た。ヘミングウェーのラストシーンでは夢の中でセスナに乗った主人公が一気にキリマンジャロの山頂を越える。雄大なキリマンジャロと氷河を眼下にセスナは雲の彼方に消えて行くのである。ところが、私の夢では、何とヘリコプターで山頂に降り立つのである。プルプルと回転するプロペラの下でどっこいしょと足を踏み下ろすと、そこが山頂なのである。このあまりにも情けないリベンジの仕方に、夢の当事者としても呆れ果てている。Jambo